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2006年10月31日 (火)

隅田川漫漕

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これは大学の仲間達と隅田川でボート遊びをしたときの写真です。
大学のボート部の艇庫が勝どきの辺りにあり、フィックス艇という6人漕ぎの
競技用ボートを借り、運河を通って銀座数寄屋橋の辺りをまわって楽しみました。
今はすっかり埋め立てられて、高速道路が走っていますが、当時の銀座は
水の街で、数寄屋橋という美しい橋がかかっていました。

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2006年10月25日 (水)

平和な青春

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これは大学のドイツ語のクラスの仲間達と学校の屋上で撮った写真です。
私達の世代は10代の時期を戦争に費やしてしまいましたので、20歳過ぎて
ようやく訪れた平和な青春を謳歌していました。

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2006年10月21日 (土)

奥多摩散策

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大学の仲間達と奥多摩の鳩ノ巣に遊びに行ったときの写真です。
この5人は皆、軍隊出身者で、よく一緒に遊びました。

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2006年10月15日 (日)

兄達の復員

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これは昭和22年の正月に2番目の兄(左側)と一緒に渋谷で撮った写真です。
長兄は大分の少年飛行兵学校を閉鎖した後に復員しておりました。
次兄は昭和20年の初春に兵役に行ったのですが、姉達によりますと
「溝の口の練兵場に面会に行ったら、もう戦地に行ってしまった後で、会えなかった」
というのが最後で、戦争が終わっても、どこへ行ったのか、生死も不明な状況でした。

そんな次兄が戦後しばらくしてひょっこりと中国から復員してきたのです。
戦争中は、朝鮮半島経由で中国に入り、軍の指示系統も乱れたまま貨物列車で
各地を迷走し、中国の八路軍(中国人民解放軍の前身)に追われる中を
命からがら逃げ延び、終戦後、青島から復員船に乗ったとのことでした。
次兄の復員で、私の家族は幸運にも全員揃って戦後を迎えることができました。

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2006年10月10日 (火)

転入学

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これは、昭和21年2月に皇居の前で撮った写真です。
背景にアメリカ占領軍総司令部(GHQ)として占有中の明治生命 第一生命ビルが
見えています。

戦後、復員学徒のために各大学で転入学試験がありました。
私は商科大学の専門部に合格しました。
この写真を撮った時は、アルバイトをしながら大学に通っていました。
商科大学は専門部3年、又は予科3年+本科3年という制度になっていました。

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2006年10月 4日 (水)

終戦直後

本日も文章だけですが、これまでの話の流れとして読んでいただけましたら幸いです。

終戦後、9月に入って復員列車に乗り、渋谷駅で降りました。
東京は見渡す限りの焼け野原で、目印となる建物が焼失しておりましたから、
自分の家の位置がわからず、道を行ったり来たりしていますと、
防空壕から出てきた姉とばったり会うことができ、ようやく家族と再会できました。

渋谷の自宅は昭和20年3月に強制撤去になっていて、両親、姉や妹は近所の
知人宅の車庫で暮らしていました。
強制撤去の理由は、自宅が玉電の線路と川との間にあったことから、空襲での延焼を
防ぐための防火帯となったからです。
私の家族は、その防火帯にある元太田眼科の頑丈な地下倉庫を防空壕としていた
ので、無事に生き延びることができたようです。
太田眼科の先生は残念ながら満州で戦死してしまいました。

渋谷に帰ってからはバラックに住み、焼け野原を耕して野菜を作り、ドラム缶風呂に
入りました。家は焼けても、あちこちに水道の鉛管だけは焼け残っており、水が出る
のが幸いでした。ただ、電灯の明かりが極めて薄暗いので、夜間の読書には
一苦労したものです。

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2006年10月 1日 (日)

終戦

本日も写真はありませんが、戦争のお話を少しいたします。

私は昭和20年8月15日の玉音放送(ぎょくおんほうそう)を群馬県沢渡(さわたり)にある
澤田小学校の校庭で聞きました。

空襲ばかりの朝霞では訓練ができないことから、8月上旬、士官学校ごと群馬県に
長期野営演習に出ていたのです。
中之条演習隊として、第1中隊-沢渡、第2中隊-中之条、第3中隊-原町に
拠点を置き、浅間演習隊として第4~6中隊が新鹿沢に拠点を置きました。

正式名称は「長期野営演習」と言いましても、実質は軍の将校生徒を守るための
疎開だと思っていました。しかし、戦後、明らかになった情報から考えてみますと、
それは「疎開」ではなかったのです。
軍部は本土決戦に備えて、天皇御座所、大本営、政府機関を長野(松代)に移す
計画を進めており、士官学校の疎開もその守備の一環であったのです。

玉音放送を聞いて、私は「これで死ななくてすむ。助かった。」とホッとしました。
周囲は涙をボロボロこぼしている人が大半だったのですが、私には安堵の気持ちが
先に訪れました。
文官教官から沖縄戦のこと、広島に新型爆弾が落とされたこと、ソ連が参戦したこと
などを聞いていましたので、本土決戦になったら死ぬのだな、と思っていたのです。

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