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2006年9月28日 (木)

東京大空襲

今日は、写真はありませんが、終戦直前の話を綴りたいと思います。

埼玉県朝霞にある士官学校で生活していた時、東京に大空襲(昭和20年3月10日と
5月25日)がありました。朝霞からも、低空飛行で飛ぶ米軍の飛行機が見えました。
米軍機で真っ黒になっている空から、大量の焼夷弾が真っ赤な光の帯となって、
地面に向かって落ちていき、東京中が火の海になっていました。

米軍は事前に空襲を予告するビラを撒いていました。
私たちはそれを「伝単(でんたん)」と呼んでいました。
士官学校で教官が「渋谷・赤坂・世田谷出身者はいるか!?」と訊ねますので、
「はい」と私が返事しますと、「渋谷は5月25日に空襲だ!」と言われました。

しかし、それを聞いても、私の為す術は何もありません。
両親、姉、妹達が無事に生き延びてくれることを願うしかないのです。

以前、「火垂るの墓」というアニメーション映画の中で、空襲のシーンを見たときに、
この時の空襲の記憶と恐怖がまざまざとよみがえり、画面を見続けることが
できませんでした。

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2006年9月26日 (火)

士官学校の仲間達

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彼らは士官学校で出会った仲間達で、皆、幼年学校の卒業生でした。
幼年学校とは当時、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の6箇所にあった、
陸軍直轄の学校です。幼年学校は中学1、2年の少年達が受験でき、3年間の
勉強の後に陸軍予科士官学校に入学します。

この時代、陸軍予科士官学校(振武台)の他に軍需を司る経理部将校の養成を
目的とした「陸軍経理学校(若松台)」と満州国陸軍将校の養成を目的とした
「満州国陸軍軍官学校(同徳台)」という学校もありました。
( )内はそれぞれの学校の呼称です。

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2006年9月22日 (金)

区隊長

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こちらは、士官学校第1中隊第1、2区隊の区隊長の写真です。
後ろの壁に掛けてある「一誠隊」とは第1中隊の名前で、第2中隊には「富士隊」という
名前がつけられていました。その他の中隊の名前は覚えていません。

1つの中隊には6つの区隊があり、当初は各区隊に区隊長がいたのでしょう。
しかし、この頃には皆戦争に行ってしまって人が足りなかったことから、
一人の区隊長が2つの区隊の監督をしていました。
写真の区隊長が斜めにかけている帯は週番の印です。
中隊全体の訓練・指揮をする週番の役目は3人の区隊長が交代で行っていました。

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2006年9月19日 (火)

乗馬訓練

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昭和20年2月に埼玉県朝霞にあった士官学校で予備教育を受け、4月に入学しました。

士官学校では、乗馬の訓練がありました。
この写真では、白い体操用の服に乗馬靴を履いています。
馬に乗ると、いつもより2mほど高い場所で呼吸することになります。
その空気は、とてもおいしかったです。
春、馬に乗って、桜並木道を行進した時の気持ちのよさは今でも忘れません。

この頃になりますと、士官学校といっても空襲警報が鳴れば、鉄砲を持って防空壕に
入り、空襲のない時は、航空機燃料用の松根油(しょうこんゆ)を採取するため、
松の根っこを掘ってばかりで、充分な訓練はできませんでした。
そういう中での乗馬訓練は、私にとってとても楽しい時間でした。

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2006年9月16日 (土)

絵葉書も戦争仕様

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こちらは、先年他界した姉の持ち物を整理していた時に発見しました。
「軍隊教育漫画集」と書いてありますが、漫画本ではなく、袋状になっていて、
中には軍隊の生活かなにかを描いた絵葉書が入っていたようです。

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2006年9月13日 (水)

陸軍中尉

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陸軍中尉だった私の長兄の写真です。
当時、大分県で陸軍少年飛行兵学校の中隊長をしていました。

戦時中の映画やドラマでいつも私が気になることがあります。
それは、襟についている階級章がいいかげんだということです。
セットはリアルに作っていても、階級章がいいかげんですと、それだけで、
残念な気持ちがします。

若い方たちにはほとんどわからない些細なことですが、私のような者がまだ生きて
テレビを見ているということを、メディア関係の人の頭の片隅にでも置いてほしい
と思っています。

このブログ上で階級章の詳細な説明をするものかどうか、と迷っていましたら、
よくできたホームページを見つけましたので、ご興味のある方はご参考ください。
   「日本陸軍階級章」 from FANCY SOLDIER

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2006年9月10日 (日)

予科練の夏服

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これは前述の仲間とは別の仲間が予科練の夏服を着て撮った写真を送ってきたものです。
海軍に入って半年が経ち、精悍な顔つきになっています。
陸軍のカーキ色(国防色)の制服と比べますと、海軍のそれは、道行く人が振り返って
ため息をつくほど、まぶしく光り輝いて見えました。

私はといいますと、芝公園近くの芝園橋の眼科で角膜炎を治療した後、
世田谷の三宿にある軍需工場で働いていました。

ご記憶の良い方は「自宅の隣が眼科では?」とお思いになるかもしれませんが、
当時、太田眼科の先生は召集されて満州へ行かれており、不在でした。
三宿の軍需工場にいるときには、何度も空襲に会いました。

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2006年9月 8日 (金)

予科練の制服

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前述の予科練に入隊した仲間が制服を着た写真を送ってきました。
写真の裏には彼が書いた私宛の短いメッセージと、「海軍甲種飛行予科練修生」という文字、そして彼の名前が記されていました。

当時流行った歌にこの制服を歌った歌がありました。

  赤い 血潮の 予科練の
  七つボタンは 桜に碇(いかり)
  今日も 飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
  でっかい 希望の 雲がわく

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2006年9月 6日 (水)

予科練入隊壮行会

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昭和19年3月30日、商業学校の仲間が海軍予科練に入隊するというので、
彼の自宅で壮行会が行われました。
海軍の予科練は、陸軍で例えますと特別幹部候補生にあたります。

彼は商業学校時代、1年生担当の副団長をしていましたので、壮行会には
もうすぐ2年生になろうかという、若者達が大勢集まりました。

その年の6月、5年生のときの担任の先生のところに赤紙と呼ばれる召集令状が届き、
先生の出征壮行会が行われるなど、私も含め、周囲は戦争一色となっていました。

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2006年9月 3日 (日)

士官学校受験写真

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商業学校卒業後の進路は、大別して家業継承、就職(戦時中のため、殆どが
軍需産業に限定されていました)、大学受験の3方向でした。
しかし私は、全てが官費で賄われる魅力的な進路、という極めて単純な動機で
昭和18年の夏、陸軍予科士官学校を受験しました。幸いにも12月に合格通知を
受け取りましたので、卒業後昭和19年4月に士官学校に入学することになりました。

19年2月に予備教育として仮入校し、諸々の普通科目、体力テスト、軍事演習等が
行われました。
しかし、練兵場で軍事演習中に私の目にゴミか砂埃が入ったのでしょう、
両目が傷ついて角膜炎になり、全てのものがぼんやりとしか見えなくなる、
というアクシデントがありました。

ものが見えないのでは何も出来ません。
「眼を治療して、来年また来なさい」、と正式入学目前の3月中旬に、同じ区隊70人の
見送りを受けながら自宅療養の破目となってしまいました。

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2006年9月 1日 (金)

卒業は12月

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これらの写真は昭和18年12月23日に商業学校の仲間達と撮った写真です。
卒業式は12月25日頃だったと記憶しております。

今も昔も、学校の卒業式は3月というのが日本の慣習ですが、私の通った学校では
昭和17年3月、18年3月、19年3月に卒業予定の学生は、3ヶ月日程を繰り上げて
卒業となりました。
この時代、他の学校でも繰り上げ卒業が行われていました。

繰り上げ卒業の本当の理由は知る由もありませんが、想像するに、
戦況が苦しい状況下、学生の身分では兵隊に行くわけでもなく、
働くわけでもないので、早く卒業させて社会やお国の為に奉公させよう、
というものだったのではないかと思います。

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